高速後はスピード注意

料金所を通過して一般道に出たあとも、しばらくは速度ボケによるスピードの出しすぎに気をつけなければなりません。

一定の速度で流れている道路なら、そのまま流れに乗って走れぼいいのですが、空いている道に出た場合は速度を意識的に落としてやることが必要です。

こうして、高速道路のスピード感を強引に払拭しなければなりません。

わずかな時間でも低速を保って走れば、たいていはすぐに本来のスピード感を取り戻せるはずです。

自分は高速から離脱する意志がないときも、出入口やサービスエリアに近づいたときは周囲をよく観察しながら走ってください。

とくに、左側車線を走っているときは、離脱するクルマと進入してくるクルマに対して十分な注意を払うことが必要です。

私は、そういったところではあらかじめ中央寄りの車線に入り、離脱や進入のさまたげにならないようにしています。

こうすれば、強引な離脱をする中古トラックドライバーの巻き添えになったり、ノロノロと進入してくるドライバーに悩まされる確率がぐっと低くなるからです。

速度ボケに気をつけて

これは、工事による車線規制のときも同じです。

出口に近づき、減速車線が見えたらウインカーで後続車に合図を送り、注意を払いながら、減速車線に移動しスムーズに減速します。

本線車線上ですでに減速を行なう中古車トラックのドライバーがいますが、後続車の迷惑になるため、これも感心しません。

本線走行中は、流れに乗った速度で走るのが原則です。

料金所の手前なりサービスエリアに入ったら、自分が「これで充分だ」と思うよりさらにもう1ランク、速度を落とす必要があります。

100キロというスピードで走り続けていると、スピード感が大きく低下し、自分は40キロぐらいまで減速したつもりでも、実は60キロぐらい出ていたということは、よくあります。

この「速度ボケ」を修正するためには、スピードメーターをしっかりと確認しながら減速することです。

料金所の手前の多くには、きつい下り勾配とカーブがあり、サービスエリアには歩行者がいるということも、くれぐれも忘れないでください。

出るなら早めに

高速道路の出口やサービスエリアの手前には、残りの距離を示す標識が出ています。

だいたい、2キロ手前から始まり、1キロ、500メートルと、3つの標識が出ている場合が多いようですが、本線を離れるときは、できるだけ2キロ標識と1キロ標識との間で、左側車線にクルマを寄せるようにしておかなければなりません。

車線変更をするチャンスがなかなか見つからなくても、少なくとも1キロ手前では確実に左車線に移動することが必要です。

出口直前まで追越し車線を走り、後続車の前を横切るようにして出口に向かうトラック中古車をときどき見かけますが、こういう運転は絶対に禁物です。

2台か3台のクルマを抜くために、他人にまで危険を及ぼすというのは精神的に未熟な入間のやることで、運転免許を持つ資格はありません。

エンジンが止まってしまったら

高速道路で中古トラックのエンジンが止まってしまった場合は、速やかにハザードランプをつけ、惰力で路側帯にクルマをなんとか寄せるよう最大限の努力をしなければなりません。

また、渋滞中でのエンジン故障の場合は、とにかく「動かなくなった」ということを周囲のドライバーにいち早く伝えることが第一です。

マニュアル車の場合は、バッテリーが元気なら、ギアを入れてセル・スターターを回せば、路側帯までたどり着けるかもしれません。

どうにもならないときは、上着でもマフラーでもなんでもいいのですが、なるべく目立つものを持ってクルマから降り、クルマの後方の路側帯、あるいは中央分離帯の安全な場所に身を置いたうえで、後続車に向かって「前方に障害物がある」ことを合図するようにしてください。

と同時に、誰かに緊急連絡をしてもらうように頼むことも忘れてはなりません。

何もせず、ただクルマのなかで助けが来るのを待つのはいちぼん危険で、やってはならないことです。

誰が自動車を発明した?

つまり、ダイムラーとベンツの両人に"花を持たせるため"あえて八六年を選んだといってよいだろう。

だがフランスの場合は少し事情が異なっている。

フランスでは一九九四年が、"100 ans de l'automobile francais"(フランス自動車百年)に当るとして、フランス自動車工業会の主催で大々的に祝われた。

百年前に現在24時間レースで知られるル・マンの街を走ったとされる(異説あり)4輪自動車の、オリジナルの設計図にもとつく精巧なレプリカが製作され、それはパリのグラン・バレーに年間を通じて展示された。

それはまさに、今の中古車トラックなどの輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのである。

この自動車の発明者は、ルーアン近くの綿紡績工場を経営する富裕な一家に生れた(一八五六年二月八日)エドアール・ドラマール・ドブットヴィルと、工場支配人のレオン・マランダンである。

ドイツ出身です

近代的で実用に耐えうるガソリン自動車の誕生は、一般的には一八八五年とされる。

ドイツのカール・ベンツの発明した3輪自動車の完成が、八五年秋のことだったからである。

そして生誕百年に当る一九八五年には、それを記念する企画が各国の多くの自動車専門誌にとり上げられた。

だがそれは日本やイギリスなどでのことで、少くとも二つの主要自動車生産国は、この常識もしくは通説にしたがおうとはしなかった。

それがドイツとフランスである。

それはまさに、今のトラック中古車などの輸送にかかわる自動車の登場するきっかけとなり、物流がさらに速くなる原動力となるのである。

ドイツの場合、自動車の誕生の年を一八八六年としているが、それはベンツが3輪自動車の特許の申請をしたのが八六年一月二九日のことであり(ガスエンジンにより駆動される車両、特許No.37435)また、ゴットリープ・ダイムラーのモトールワーゲン(4輪)の完成が一八八六年の冬のことだったためである。

1秒早く動作を起こす

では、こうした身体機能の衰えに対して、いったいどのような心構えが必要なのでしょうか。

ひとことでいうと、「1秒の重みを大切にする」ということになります。

自動車事故の大半は、1秒というわずかな時間のなかに凝縮されています。

見通しの悪い交差点での出合い頭の衝突事故はもちろん、追突事故も、あるいはカーブを曲がり切れずにセンターラインをオーバーして正面衝突といった大事故も、ほとんどは1秒早くブレーキを踏んでいれば起こらなくてすんだ事故といえるのです。

通常、危険を見つけてからブレーキペダルを踏みはじめるまで、早い人で0.5秒台、遅い人で0.8秒台ぐらいといわれています。

このわずかコンマ数秒の違いが、緊急時に大きな結果の違いを生みます。

さらに、ペダルを踏んでからブレーキが実際に作動するまでにも、コンマ数秒かかるわけで、危険察知からブレーキ作動までは、トータル1秒前後になります。

中古トラックなら重量があるのでもう少し時間がかかります。

ちなみに、クルマは1秒間に、時速100キロで走行していれぼ28メートル、50キロでも14メートル進みます。

この距離を考えただけでも、「1秒の重み」を理解していただけるのではないでしょうか。

クルマの運転に必要な「反射力」の衰えを自覚する

人間は誰しも年をとり、それとともに身体機能も必然的に低下していきます。

私も数年前に50歳を越え、階段を駆け上がったときなど、心肺機能や下半身の衰えを意識させられますし、重い荷物を持つと、「ギックリ腰にならないか……」といった不安が心をよぎります。

こうした身体機能の衰えに対し、日常的なトレーニングの積み重ねによって、そのスピードを緩めてやることは可能です。

「月に2、3度はゴルフをやってるから、体力には自信がある」と思っている人も多いでしょう。

けれども、中古車トラックの運転に必要な身体機能とは持久力ではないし、瞬発力でもありません。

瞬間的に判断を下し、それに対して動作を起こす能力、「反射力」です。

そして、この反射力は、年齢とともに確実に衰えていきます。

スポーツをしていようといまいと、これはすべての人にとって避けられない現実です。

したがって、われわれの世代の人間は、まず自分の機能の衰えをしっかりと自覚し、そのうえでクルマの運転を考え直さなければなりません。

スモッグって?

日産自動車の中川良一・元専務は、まだ日本でスモッグや排ガス問題が全く出ていなかった1955年(昭和30年)に、米国ロサンゼルスでスモッグを見た。

当時は新車もトラック中古車も排気ガスをもうもうと上げて走っていたのである。

日本の自動車関係者で、のちに大きな社会問題になるスモッグを見たのは、恐らくこの時の中川氏が初めてだろう。

その時の模様を中川氏は次のように語る。

「昭和30年の1月10日ごろのことです。

私は当時、日産自動車と合併する前のプリンス自動車でロケットの研究中でした。

その調査のため渡米してロサンゼルスのエアロジェット・ゼネラル社を訪ねていました。

ロス郊外を自動車で走っていた時、ふと見ると非常によい天気なのに前方に妙な雲の形をしたものがポッカリ浮んでいる。

案内してくれた同社のミーゼ博士に『あの雲のようなものはなんですか』とたずねたら『あれが有名なスモッグだよ』といいました。」

当時はまだ日本には大気汚染問題など全くなかったころですから、私はスモッグという言葉は聞いたことがありません。

苦難に負けない

0年代の半ばから50年代のはじめにかけては、まさに自動車の苦難時代だった。

とくに排ガスによる大気汚染は、場合によっては自動車メーカーの存立にかかわる重大問題であり、各社とも技術陣を総動員してこの難問と取り組んだ。

業界の調べによると、排ガス対策のための業界全体の研究開発費は、昭和44年は48億円だったのが、50年には700億円と約15倍にふえた。

トヨタ自動車一社だけで、昭和45年から51年末までの累計額は約1,000億円に達する、という。

また研究開発のために投入した入員は、業界全体で44年には842人だったのが、50年には7,052人と8倍以上になった。

トヨタ一社では45年に519人だったのが、50年には2,130人の規模になっている。

この結果、排ガス規制に関する開発技術も、短期間に著しく進み、当初は困難と予想されていた51年規制も乗り越えることができた。

当時は中古車トラックのような物は別に扱われていたため51年規制は関係ない。